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  • 執筆者の写真大場敬子

学校と塾のコラボについて



学業は、小学校、中学校、高等学校へと進学し、6+3+3年で12年間の教育期間が一般となっている。大学、大学院まで進学すると16~18年間を費やすこととなる。義務教育は9年間(15歳まで)で終えてしまうが。国が定める「日本国民として強制される教育機関は9年間」で、希望すれば「その後の3年または7年、ある学生は9年間という2倍の歳月を教育に充てることができる社会の構造」となっている。


日本の平均年齢44歳。高齢化が進む日本だが「長寿国世界一」となった日本の平均寿命は83歳。(男性79歳世界8位、女性86歳世界1位。)

学生であった年齢を22歳までとすると、上の「平均年齢44歳&平均寿命83歳」の数字を考えると、それぞれ、学業の在り方、その学業の質についてを考えさせられる。


人生いくつになっても教育又は学習できる機会を捉えて自分磨きをすることはよいことだとは思うが、生涯学習としてではなく、「将来の仕事を決める」「将来の人生設計を考えて希望する学業と専門職を捉える」ための学業としては、資格が必要な職種も多いことから、学歴は必須または絶対条件となり、国家試験なるものなど試験の合否が個人の人生に大きくかかわってくる。


そのため、その筋の予備校なる学校に、在学中または卒業後、再び「学び舎」とするのは周知のことである。そうすることが当たり前のご時世(しくみ)となっている。

その「塾や予備校が学校とコラボする」という話題を多く耳にするようになった。


ある県の進学校や中高一貫校で、その「塾や予備校が学校とコラボする」ことを取り入れていることが少なくない。「塾や予備校の先生」又は「大学の学生」が、週末だったり、学期末の休業日だったり、1年を通して学校登校日以外を「補習の日」として用意している。その際、授業料金が発生することもある。


一貫校の指導要綱は学校又は県によって異なるのかもしれないが、中学3年生の夏以降は高校の教科書に移行する。理解できる、できないかは、その指導と生徒の学力だが、早い時期に、洗練された質の高い応用問題に挑戦させる。プリントや副教材が用意される。(参考書がないと解けない。生徒はその参考書がわからない。そこで我々の出番となるのだが。)もちろん解けない、わからない生徒が続出。その様な取り組みは、テクニックに走るばかりだ。『その解き方の形を覚えてしまえばいい』と力説する教育者もいるが私はそうあっては欲しくないと思う。学習には段階というものがある。


試験が間近で当然その難問を打破しなければ道が開けないのならば、いちかばちか丸暗記してそのままわけもわからず解いていく学生もいる。結果として正解だったことは合格点に繋がり良い結果といえるかもしれない(2度目の合格点があるのかは否めない)が、将来的な個人の福祉を考えるならば手放しで喜べないのではないだろうか。まだこれから学習が進んでいくという途中で、そのような矛盾に満ちた教育・学習は、価値のあるものなのだろうか。


の良さ」と「問題に取り組む精神の質の軽さ」と「真剣な納得のいく物事の判断」「モラル」にも影響しかねない結果を生むかもしれない。


受験生は受験生で「それもあり」と一呼吸ついて状況を理解し、精神的な余裕がないにしても「受験日目前」という切羽詰まった場合での対応ではあるのだろうが、成長の過程で、目先の点数だけを考えて取り組むのは、不安が付いて回る。そのような学習の仕方は避けたいと思うのは当然だ。


予備校の先生が高校生の補習にやってくる。

素晴らしい先生、教えの達人はたくさんいらっしゃる。予備校の授業は、基本は分かっているはずで進める。予習していて当たり前。自分のわからないところを集中して聴き、そこを学び取る


基本的には「学校」と「」「予備校」では、方針や目的、結果の示すところが異なる、いや、異なるべきだし、異なって当たり前だ。


「小学校、中学校」と「高等学校」とでは学習要項の論点が異なるのだが。「塾」「予備校」は「短期集中型」である。それぞれの学校では「基本を一通り学んだ」から、さらに新しい内容へと進むことができる。ある程度時間をかけて、導入の部分から学校で説明してくれるというありがたい指導の上に、塾の指導があると私は思っている。(導入を無視して教える先生がいるのも現状ではある)そして、塾では「基礎力の定着」を強化するために「問題を解く」練習をして、さらにテストに対応した応用問題を習得し新しい問題をも解いていく力をつけさせる。


教育に携わる者は、教育が「永劫に及ぶ」などと傲慢に考えてはいないはずだ。

ただ、教育は個人に影響を与えることは確かである。

教育と一言でいうが、奥が深い。その教育をバランスよく受け、知識を得て、知っていることが多ければ多い人ほど人生も楽しめるし、高学歴のほうが高収入であることは統計でも示されている通りだ。


教育に携わる者は、子どもたちが一般社会で認められている常識のある大人に、そしてある程度貢献できるそんな社会人に成長してもらいたいと思っているだろう。


「小学校、中学校」において、最近のニュースで「学習をゲーム感覚で覚えてもらう」という取り組みが提案されているとあった。学校側には限界もあるのだろう。その筋の「塾?」にお願いし、取り入れることを計画するその理由はいったい何なのかを知りたいと思うのは私だけではないと思う。何の意味があり、子どもたちのただ「あっという間の(授業)時間が過ぎた」だけが残るのではないかと不安になる。

実際に、英語教育もしかりではないだろうか。CD付の絵本など軽い原書を読んでクラスのみんなで暗唱した方がよいと私は思う。


そのような「ゲーム感覚の学習」は、楽しくって、愉快で、インパクトがあって、その時の先生の顔、友だちの表情までもが脳裏に残っていて印象深いものかもしれない。しかし、それは一過性のものだと私は思う。


勉強する、学習に取り組むのは個人的なことであり、その助けとなるのはどんなことかと真剣に指導の立場にある者は考えなければならないのではないかと思う。

楽しいことは学校行事の中にたくさんある。

1つのテーマを学習と結びつけて発展性のあることとして取り組むなら無数に例示できよう。目先やその場限りの楽しみではなく総合的な教養と知識を義務教育の在り方をもっと充実させるべきだと思う。その点でもっと管理職にある以前は教鞭をとられていた方に頑張ってもらいたいと思う。柔軟であるべきところ、一貫しなければならないとことをメリハリ持って取り組んでほしいと思う。


これまで各教材を取り扱う業者が、様々な道具を考え出してくれている。掛け算や漢字や歴史・地理を歌や絵で覚えたり。それは副次的なものかもしれないが、アイデアとその実践力、作り出すエネルギーは物凄いと感心する。基本となる教科書は、編集また掲載内容の検討に多大な時間をかけつくられる。にも関わらす、学校では、教科書一冊丸々学習できない状況下にある。仕方がないといえば仕方がない。勝手に児童や生徒が目を通せばよいということになる。


学校と塾が同じであってはならないはずだ。本来、「塾」は必要のないものだと思っている。(必要でなくなれば私自身は困ってしまうのだが。)


子どもたちがのびのびと勉強することに真剣に取り組める学校が理想だ。学校でしっかり学ぼう、ゲーム感覚で勉強するのではなく、「教えていただく先生に敬意をもって学んでいく姿勢」が大切なのではないかと。

教育現場で「教師ではなく保護者や回りの価値観の緩い雰囲気の状況」が、何かをはき違え、間違った方向に進ませているのではないかと不安に思っているのは私だけではないと思っている。


長年塾を経営し、指導している私が言えることは

・小学校、中学校の担任の教師より、入塾した生徒指導の私の方が、塾生の学習面での理解力の把握と成長の過程、生活環境や周りの繋がりなどをしっかりと何年も見てきていることの事実


・偏差値をしっかりあげてキープさせるだけの指導力があるという事実


・「誠実、信頼、安心、熱心、真剣」という意味では、保護者が塾の方針に同意し、敬意を持ち、その敬意が生徒に伝わり、一緒に学習する回数が増えることにより、その敬意は真剣に学習することと結びつき、意欲と学習内容が結果である合格を勝ち取ってきたという事実


・1年間で終わってしまう指導ではなく、10年以上も携わることもできた生徒がいるという事実


・個人の塾ですから、誠実に生徒と向き合うことで、生徒と保護者と私との間の信頼感で、塾生が増えていくことの事実


・反対に、評判を落とせばやってはいけない厳しい業種だという事実


・将来が保障されている学校の教師とは、真剣さでは負けないという事実


・そして、楽しみに仕事をさせていただいている事実

2014年4月18日 大場敬子


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*ブリスマーク®進学塾 塾長大場敬子のブログを2022年7月より、2013年ブログから掲載させて頂きます。10年間の歳月の流れが面白い!

ブリスマーク®進学塾 塾長大場敬子

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